エトワールの木漏れ日

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ミュージカル 『INTERVIEW~お願い、誰か僕を助けて~』Team RED ver.&Team BLUE ver.観劇備忘録

ミュージカル 『INTERVIEW~お願い、誰か僕を助けて~』Team RED ver.&Team BLUE ver.観劇備忘録

 

会場: 品川プリンスホテル クラブeX
全5列+BOX席。客席を使う演出のためか1列目はなく2列目スタート。演者が客席にいるときは誇張なくまさに手の届く距離。舞台上にいるときでさえ最前列ならば2メートル程度の距離感。最後列であっても一般的な学校教室よりもずっと近くに感じました。
フラットタイプの座席ということで最後列からの視界を心配していましたが、感染対策から横との距離感が保たれていたこともありそこまでストレスを感じることなく観劇することができました。
何よりも円形シアターということで360°どの角度からもあの濃密な距離感で、作品のもつ重さ、役者の熱量、そこに生きている登場人物の息遣いを体感できるというのは贅沢な時間でした。

 

Team RED ver.
ユジン・キム/松本利夫さん
マット・シニア/糸川耀士郎さん
ジョアン・シニア/伊波杏樹さん
3/26(金)13時公演
3/27(土)12時公演

 

Team BLUE ver.
ユジン・キム/丘山晴己さん
マット・シニア/小野塚勇人さん
ジョアン・シニア/山口乃々華さん
3/26(金)18時公演

 

当初Team RED ver.のみの観劇予定でしたが一度観劇すると様々な解釈のできるタイプの舞台であることが分かり、どうしてもTeam BLUE ver.も観たくなってしまい当日券を購入。そのくらい深く引き込まれていく作品でした。

この作品の面白さは次々と明らかにされる真実という展開で魅せる面白さ。
多重人格という役者の技量で魅せる面白さ。
そして360°円形ステージならではの観る角度。観た回数。REDとBLUEどちらの公演を先に観たかによっても解釈が異なり変化していく面白さがありました。
それはまさに真相に近づき何としてもマット・シニアを救おうとするユジン・キム先生の追体験でもありました。

 

 

 

以下、個人的な解釈や各役者さんの感想など。記憶違いなどもあるかもしれません。

 

 

 


【あらすじ】

ざっくりとしたあらすじ。
小説『人形の死』の作家ユジン・キムの元にアシスタント希望の青年シンクレア・ゴードンが訪れる。
ユジンは遺書と思われる手紙を元にシンクレアに物語を作るよう指示しインタビューは始まる。
しかし本当のインタビューはシンクレアがブザーを鳴らし扉を叩く以前から始まっていた。
シンクレアを名乗る青年の本当の名前はマット・シニア。『人形の死』の題材となったのは姉ジョアン・シニアの事件であり、その真犯人は当時姉の教育実習生であり恋人だったシンクレア・ゴードンと疑い十年間追い続けていたのだ。そして『人形の死』の作者であるユジン・キムこそシンクレア・ゴードンであると彼の正体を問い詰める。
しかしユジンは彼の推理の矛盾を指摘し、逆にシンクレア・ゴードンはすでに死んでいるという事実を突きつける。
混乱したマット・シニアの中からジミーという別人格が現れる。
ジミー曰くこれで会うのは5回目。
ここから精神科医ユジン・キムとマット・シニアの中の別人格たちとの対話が始まる。

 

 


【マット・シニアについて】

《個々の人格が生まれた順番》

マットの中にはマット・シニア本人以外に少なくとも四人の人間が存在します。ここでは作中では明確には語られていない、彼らの誕生のきっかけについて考えてみたいと思います。

 

①ノーネーム

ノーネームが生まれたのは「あんたなんか生まれてこなければよかった」と言われたあの日。
マットが生まれてすぐ夫を事故で失い精神を病んでしまった若い母親は育児を放棄。母親からお乳も与えられず生存危機というギリギリの状況にあったマット。幼いジョアンもまた母親から育児を押し付けられ、赤子のマットが泣き止まないことを理由に手を上げられる。マットが生まれてから不幸は続き母親は変わってしまった。そう考えたジョアンは赤子のマットを乱雑に掲げ(首を絞めた?)叫ぶ。
「あんたなんか生まれてこなければよかったのに!」
存在すらも否定された記憶は赤子であるマットの脳に強烈に焼き付き、生存戦略としてノーネームの核が生まれたのではないか。
赤子が言葉を理解するかという点は、この出来事を母や姉がわざわざマットに語るとは考え難いので、赤子のマットに焼き付いた記憶を成長するにつれて理解し、ノーネームという生存に最適な思考を持つ冷静沈着な人格が形成されていったと私は考えました。

 


②③ウッディ&アン

ノーネーム曰く二卵性の双子と語られたウッディとアンが生まれたのは、ジョアンに義父からの暴力から守ってほしいと請われた日。
“守って”という言葉はとても都合の良いもので、それは“身代わりになって”という残酷な願い。そんな非道な願い断ることもできたはず。しかしマットはそれをしなかった。なぜか。
マットが優しい子だったからというのもあるでしょう。けれどもう一つの理由は“必要とされたから”。
「明日はお姉ちゃんだって」
「そうはならないわ。あなたがいてくれてよかった」
生まれたときから母からも姉からも存在を否定された男の子は、この時初めて“存在を必要とされた”のです。
それはマットが自分という存在を肯定するためにジョアンという存在への強烈なまでの“依存”と“執着”になったのではないでしょうか。

しかし心のどこかで姉に利用されていることも理解している。
・必要としてくれている姉を守りたい
・僕を身代わりにした酷い姉さん
相容れない感情がマットから切り離されウッディとアンが生まれた。
暴力という痛みを担うウッディ。
性暴力という姉の身代わりを担うアン。
アンがあんなにもジョアンに怯えていたのは、ウッディが“守る”という意識が強く反映されているのに対し。アンは“身代わりにされた”という被害意識がより色濃く出ていたのだと私は捉えました。

「私はもうあの酔っ払いに二度と近づきたくないの!」という懇願の必死さを見るに、ジョアンは彼女が身代わりを懇願した前日に初めて義父から性暴力を受けたのではないでしょうか。
マットが身代わりになったからといって頻度の差こそあれどジョアンへの暴力、性暴力が完全に止まったとは考え難い。それでも彼女がいくらか救われたのは“マットよりはましだ”と思うことで乖離とは異なる方法で己の心を守ったからなのかもしれません。
ジョアンにとってのマットもまた“依存”の対象だったのです。

「愛以上の愛で愛するって何?」
「私たちみたいなことよ」
「「絶対離れられない愛!」」
幼い二人のまるで誓いを交わすような純粋な言葉。それがこの先、依存と執着で絡み合っていくのだと思うと二人の無邪気な笑顔が胸に突き刺さります。

 


④ジミー

ジミーのジョアンに対する態度は明らかに他の人格たちとは異なるものでした。
REDジミー:ジョアンの頤(おとがい)にそっと指をかけ切なそうな眼差しを送る。
BLUEジミー:段差を上がるジョアンに手を差し出し そっとエスコートする。
行動の違いこそあれどREDとBLUEのジミーには共通してジョアンへの恋愛感情が見てとれました。

汚い言葉を吐き捨てる、ユジンにタバコを吹きかける。その粗暴な態度から一変しジョアンにだけ見せる切なくなるような優しさ。
「あなた誰!あなたマットじゃないわね!」
そうジョアンから拒絶されてなお「くそっ!みんなマット!マット!マット!」と声を荒げるだけでジョアンにあたるようなことはしませんでした。

おそらく彼は体が成長しジョアンと肉体的一線を越えた頃に生まれたのではないでしょうか。マットのなかでジョアンが“守るべき姉”から“守るべき女性”に変化したことで、力の差はまだ及ばずとも殴られるがままだった子供に義父に対抗する意志が宿った。
ジョアンを守れる強い男になりたい。
皮肉なことにマットにとって“強い男の象徴”こそが“暴力を振るう義父”。彼の柄の悪さは義父の姿そのものなのでしょう。
(話の本筋とはまったく関係ないのですが。ジミーのジョアンに対する態度のギャップが雨の日に仔犬を拾う不良理論でときめいてしまいました…笑)

 

 

《マットにとってのジョアン》

ジミーについてはREDとBLUE共通して恋愛感情を抱いていた。ではマットがジョアンに向けた愛情はどうでしょう。
私は以下のように解釈しました。
REDマット:姉弟の愛情寄り
BLUEマット:恋愛感情寄り
もっとも異なる印象を受けた場面が、ジョアンから「シンクレアと共にここを出て行く」と告げられたことに激昂し彼女を手にかけてしまうまでの流れです。

REDマットは物に当たることで怒りを露にし、机の上で首を絞め上げたのち縋るように抱きしめようとする。しかしすでに事切れたジョアンは力なくすり抜け落ち抱きしめることは叶わない……という流れ。
私はこの場面に“姉に行かないでと縋る弟”という印象を抱きました。
つまりREDマットは、ずっと傍にいると約束してくれた姉さんが僕を置いて行こうとしていることに絶望した

BLUEマットジョアンをお姫様抱っこで抱き上げクルクル回る。(この場面は幼い頃『クックロビン(誰が駒鳥殺したの)』を歌いながら椅子に座らせたマットをジョアンがクルクル回して無邪気に遊んでいた頃の対比になっている)
机の上で腰に手を回しチークダンスのように踊るなど女性として扱っていることがうかがえます。
首を絞めたあとも力強く抱きしめて「彼女は僕のものだ」と満たされたような表情をしていたことから、男としての嫉妬心が色濃く出ていた印象を受けました。
つまりBLUEマットは、ジョアンが本当には自分を愛してはいなかったことに絶望した。
(本編とはまったく関係ないのですが、Team BLUEのこの一連の流れにミュージカル『エリザベート-愛と死の輪舞-』の『最後のダンス』っぽさを感じて、え!この演出Team REDでも観たかった!!と一人で勝手に盛り上がっていました 笑)

「精液のことは言うな!」の激昂の理由もBLUEマットは男としての嫉妬心から。REDマットは姉を美化しているところがあるので“シンクレアと旅立つと話していた姉さんが直前に他の男と関係を持つはずがない”という苛立ちからきていたのかな?とも思いました。

 

 

 

 
ジョアン・シニアについて】

RED→BLUE→REDの順にした観劇の過程で、もっとも大きくイメージが変化していったのがジョアン・シニアです。ここではその変化の過程を記したいと思います。

①Team RED
ほぼ真横の下手側の席だったので見えなかった演技や表情も多く、声のお芝居に頼った記憶になってしまいました。また初見のため物語の状況理解、情報処理に気を取られ、登場人物たちの心情面の見落としや汲み取りきれなかった部分も多かったことは否めません。

ノーネームの語った過去のジョアンは声のトーンも落ち着いており、淡々とマットを利用しているという印象を受けました。しかし時折どうにも“淡々と”という一言では片付けられない曇った表情をしている。
この引っ掛かりはBLUEジョアンを観たことでスッと馴染む解釈を得ることができました。

  ↓

②Team BLUE
BLUEジョアンからは“女としての強かさ”が感じられました。
まず演出面でジョアン像に明確な違いがありました。それがマナーレッスンの場面(「背筋を伸ばして。小指はカップに添えて」の歌の場面)です。
REDジョアンは対面に座りパチパチと拍手をして手遊びのとき同様にマットを褒めるのに対し。BLUEジョアンは小道具として棒を持ち机をパシッと叩きマットを厳しく躾けるという描写になっていました。
まずこのことからBLUEジョアンは“強さ”を強調しているのかな?という印象を受けました。

また山口乃々華さんのお芝居からも可愛らしさの直後に見せる“切り替えの早さ”が表現されており。生き残るためにはマットだけでなく、己の女としての性すらも利用する“強さ”を感じたのです。(BLUEジョアンにとってはジェイクやシンクレアすらも自由を手にするための道具にすぎなかったと私は解釈しました)

とくに山口さんの演技でハッとさせられたのが「あなたがいてくれてよかった」の台詞です。
「あんたなんか生まれてこなければよかったのに!」という言葉から「あなたがいてくれてよかった」という言葉への変化。文字だけで見れば真逆の意味合いで関係性が好転したかのように見える台詞が、ジョアンがマットを見限る決定的な台詞となっていました。山口さんの愛らしい声と相まって『少女の中の“女”の目覚め』を感じさせ、マットを利用することを割り切った瞬間を見事に表現されていました。

そこからはもう、少女の中に内包する“女”を覗かせる表情を目にするたび、ジョアンの生き抜く術はこれしかなかったことを痛感させられ胸が痛くなりました。

  ↓

③Team RED
BLUEジョアンの中に上記のような“強さ”を見つけたことで、私はREDジョアンの曇った表情の答えを得ることができました。
『罪悪感』
REDジョアンはマットを利用している自覚を持ちつつも罪悪感も捨てきれない。生き残るためにマットに“縋る”ことしかできなかった“弱さ”を抱えたジョアなのだと解釈しました。

そんな解釈を得ての二度目のRED Ver.観劇。ほぼ正面の座席だったこともあり、まるで別作品を観たかのように新鮮な感動の連続でした。もっとも衝撃的だったのがマットに家を出ると打ち明け「僕はどうするのさ?」と問われた場面の解釈。
「やめて…足を引っ張るのは」
一度目の観劇では身勝手さとしか捉えることのできなかったこの台詞が“お願いだから言わないで”という懇願に聞こえたのです。
そうして続く次の台詞。
「大人になったらもうおもちゃはいらないの」
冷たく突き放す場面に見えたこの言葉も優しく諭すように“私が外の世界で本当の愛を見つけられたように。きっとあなたも本当の愛を見つけられるわ”という自分からの解放を告げる言葉と捉えられたのです。
しかしそれも自己を正当化する言い訳でしかありません。REDジョアンからは聡明さも感じられたので、おそらくその自己矛盾すらも理解した上で最後までマットの優しさに甘えてしまった弱い人なのでしょう。私はREDジョアンをそのように捉えました。

 

ここからはお芝居に基く解釈というより、ジョアンがマットを捨てるに至る思考の想像になってしまうのですが。
REDのマットとジョアンが体を重ねる場面は“男女の求め合う関係”というよりも、切なくなるような穏やかな空気があり“慰め合う姉弟の延長線上にあった行為”と感じました。
REDジョアンにとってはマットと体を重ねる行為は、身を挺して守ってくれるマットに身を捧げる行為でもあったのかなと。マットもまた自分を必要としてくれるジョアンを必要としていた。依存関係。
マットに「恋をしたの」と打ち明ける場面でジェイク・マルフォイのことを「彼は表向きの人」と答えたことから、ジョアンは世間体を気にする様子がうかがえます。ある意味その言葉に嘘はなかったのでしょう。18歳ともなれば周囲は恋に色めき立ち、恋をして当然かのような空気になりますから。
同時にジョアンは恐れたのではないでしょうか? マットが自分と同じように外の世界を知り自分から離れて行くことを。ジョアンにとってマットに捧げられるものであった体は、次第に繋ぎ止める手段に変わっていった。
しかし彼女の前に自分を外の世界に連れ出してくれる大人の男性が現れてしまって……。

葛藤しつつも最終的には自己を正当化する結論に至ってしまう。あのように過酷な家庭環境でなければ、ずっと優しいお姉さんでいられたはずなのに…。
誰だって正しくありたい。酷い人ではある。けれどその狡さ、弱さは誰の心にもある。
いやマットも一緒に連れて行くとか選択肢は他にもあったのだろうけれど…。それをするには姉弟としての関係性がすでに歪になりすぎて出来なかったのだろうな…とか。自分のことで精一杯だったんだろうな…とか。
冷静に判断できるのは私がすでに大人になっていて、安全な環境下にあるからなのだろうと思うとジョアンのことを考えれば考えるほど自分の弱さと向き合わされて……つらい。
同情とはまた違うのですが、責めきれない人だな…と。


私はかなり登場人物に心を寄せてしまうタイプで、解釈もそれに引っ張られてしまう傾向がある自覚もあるのですが。
二度目のRED Ver.観劇で見ることのできた三人で歌うラストの場面。そこでジョアンがユジン・キム先生に向けた“マットのことを託すような眼差し”とそれに頷き返すユジンの姿に胸を打たれ、そこに私は希望を見出しました。
直感的にあれが伊波さんの演じたジョアン・シニアの本質だと感じた。あの瞬間に動かされた気持ちを大切にしたいと思います。ジョアンのなかにマットへの愛情は確かにあった、そう願っています。

また、別解釈として「ジョアンのあの表情はマット個人に向けたものではなく“マットのような子供たちを助けてあげてほしい”という願い。ユジンを通して観客へ託した願いを象徴した場面」だと解釈する自分もいます。
実際、冒頭のマザー・グースの『クックロビン(誰が駒鳥殺したの)』を歌いながらジョアンが事件の証拠を点々と散りばめユジンを真実に導いていく場面も「ジョアンを殺したのは誰か」「マットの心を殺したのは誰か」という物語の暗示だけでなく「マットやジョアンのような子供たちを見殺しにしたのは誰か」という観客への問いかけでもあったと私は解釈しています。
目を背けたくなるようなことが、この世界に実際にあるという現実。それを物語として消費するのではなく、現実の問題として突きつけ問いかけることに“表現されることの意味”があるのだと思います。ですからこれは愛の物語なのだと。何ができるのか。どうしたら手を伸ばせるのか。希望の光が一人でも多くの人に芽生え、育ち、届きますように。

 

 

 

 

 【ユジン・キムについて】

最後の場面でマットの書いた「遺書」を破くことで“必ず彼を助ける”という意志を示したユジン・キム先生。(マットが遺書を書いていたあの場面。最初は過去の回想かなと思ったのですが、マットは自殺を繰り返しているのかな……お願い、誰か彼を助けて)
松本利夫さんと丘山晴己さんの演じるユジン・キム像の違いから、ラストに抱く救いの方向性が違うこともまた大変に興味深かったです。

松本利夫さんのユジン・キムは実直さが前面に出たお芝居で、不器用ながらもマットが家庭から得られることのできなかった“父親からの愛情”に近いもので包み込んで救ってくれる、という希望を抱きました。
また松本さんのユジンは観客に近い立場からマットに接している感覚があり感情移入しやすかったです。

丘山晴己さんのユジン・キムからは常にどこか余裕のある仕草、佇まいから仕事のできる男として彼ならきっとマットを救ってくれる、という安心感を抱きました。
また最初の高圧的な態度から一変し、ジョアンの亡骸に自分の上着を掛けてから抱き上げてあげるという紳士さを見て。最初の態度は真実を引き出すためのユジンの演技だったのか!というプロの仕事を見せつけられ、その信頼はさらに厚くなりました。
(またも本編とはまったく関係ないのですが。公演が始まる前に丘山晴己さんのツイッターを拝見して絵文字のたくさん散りばめられたキラキラとしたツイートのテンション感に驚いてしまい『刀剣乱舞』に詳しい妹にどんな人なの?と聞いてみたところ
「ハッピーハルちゃんです」
「え?」
とさらに戸惑いの渦に叩き込まれたのですが…笑
アメリカ仕込みの役者さんです。舞台での体幹や見せ方などしっかりしています。歌も声量もあって歌える人よ」
と教えてもらい本当に歌が上手くて、後日妹にどうだった?と聞かれ
「歌が本当に上手かった。寿司で例えるならトロ」
「お姉ちゃんの例え時々感覚的すぎて分からない」
「歌声が舌で溶ける感じ」
「…なんか分かるのが悔しい」
という会話を繰り広げました 笑)

 

 

 

 

【マット・シニアという役について】

素晴らしい作品が日本に来てくれた!
作品として面白いのはもちろんのこと。色んな役者さんにマット・シニアという役を演じていただきたい!ぜひとも何度も再演を重ねる作品になってもらいたい!演劇ファンとしてそんな期待と高揚を覚える舞台でした。
多重人格という難しさもさることながら、背負った人生の重さに呑まれることなく演じ抜いたとき。その役者さんは一皮も二皮もむけた実力と自信を手にすることでしょう。

そして、いわゆる“推し”のいるファン目線で声を大にして叫びたくなった『絶対に推しに演じてほしい役じゃん!!』という高揚感。公演期間中に伊波さんファンの私が
「マット・シニアという役自体が観たら“推しに演じてほしい役”だと思います。なので今回が初めましての私が言うのもおかしな話なのですが、糸川耀士郎さん、小野塚勇人さんという役者さんが気になっている方は絶対に観た方がよい作品だと思います
#インタビューミュージカル
#だれ僕」
とつぶやくほどに。

好青年から粗暴な男。幼い男の子からおませな女の子まで!衣装の着こなし、着崩しも女子がときめく要素が詰まっていたのではないでしょうか?
そして明滅するスポットライトのなか次々と入れ替わる人格の演技は圧巻!
(昔テレビで見た多重人格者の特集で、複数の人格の中に統率者がおり、その統率者の支持でスポットライトに入った者が表に出るという話を聞いたことがあります。あの場面はまさにそれでしたね)

観ることのできた方々は本当に幸せだと思うのです。仮に今まだファンでない人が未来にファンになって別キャストさんでこの舞台を観たら「この役をかつて推しが演じただと……私はどうしてもっと早く出逢わなかったの!?」と私なら頭を打ちつける自信がある。

私は伊波さんのファンなのでどうしてもREDマットの糸川さんの印象が強く残ってしまい申し訳ないのですが、小野塚勇人さんはこれがミュージカル初挑戦とは思えないほど安定感のある歌声、安心感のあるお芝居で今後のご活躍が楽しみです。

そして糸川耀士郎さん。私にとって初めましての役者さんだと思い込んでいたのですがノーネームの際の雰囲気にどうにも覚えがある気がして改めて調べてみたところ、私拝見しておりました。
舞台『黒子のバスケ』の赤司様は糸川さんだったのですね!お芝居は覚えています!!陽泉高校戦メインの回だったので出番自体は少なかったのですが。それでも落ち着いた雰囲気からの刺すような冷気の放出を感じる演技を覚えているので、記憶に残るお芝居をされる役者さんなのですね。(黒ステは振付師の川崎悦子先生のダンス目的で観に行ったので、役者さんのお名前まで記憶しておらず大変失礼いたしました)

ツイッターの方でも少し呟いたのですが、これまた妹にどんな役者さん?と聞いたところ「とても器用な人よ」と教えてくれました。
しかし後半の激しく入れ替わる人格の演じ分けを間近で浴びてしまった私は“器用”などというさらっとした一言では表現し尽くせないスキルの高さを目の当たりにしました。巧みで素晴らしい技術を持った役者さんです。
また、面接の途中「先生の中にはもう一人の自分がいますか?」と自分の中の怪物について打ち明け「誰しもそういうものだろう。私にだって」とユジンが返した場面。下手側に座っていた糸川さんはこの場面で笑みを浮かべました。初見のとき私はこの表情を「先生の中にも怪物が!」と理解者を見つけた喜びの笑みかと思いました。しかしその割にどうにも含みがあるような?と思っていたら、マットはユジンをシンクレア・ゴードンであると思い込んでいるという展開。
あの笑みは「やはりこいつが犯人。ようやく尻尾を出したな!シンクレア!」という表情だったのか!!笑みだけれど唇の端の力加減と目つきの角度で含みを持たせる!なんと芸の細かい!!と感動しました。

妹に糸川さんについて聞いた際
「糸川君は、刀ミュでは元気な男の子『浦島君』役で可愛い系な歌を歌っていたのですが、1月の音曲祭ではとある歌を歌って響く低音と日ごとに増す色気にファンの度肝を抜き、千秋楽後には『浦島様』と呼ばれるようになった。私もその一人だったりします。」
という熱いプレゼンを受けその時はさらりと聞き流していたのですが、今めちゃくちゃ前のめりで「ぜひ円盤を観せてください!!」となっています 笑

先日発表された糸川さんが出演されるロックミュージカル『MARS RED』も、先日観劇した舞台『GHOST WRITER』の演出家西田大輔さんが脚本演出。好きな役者さんの一人である七木奏音さんも出演されるということで。観に行く気満々でいるのでとても楽しみです!

 

 

 

 

伊波杏樹さんについて】

伊波さんは役柄によっては「帰ってきたときの表情がいつもと違って心配した」とご家族に心配されるほど役に入り込んでしまうタイプの役者さんなので、今回の舞台もあらすじを読んだとき少し心配していました。
しかし、今回の伊波さんはまるで違いました。稽古段階からラジオ等で聞く言葉は「楽しい!」という言葉ばかり。それは本番を迎えてからも変わることはありませんでした。

そして実際に観劇してみるとあれだけ「今回稽古が楽しい!」と繰り返していたのも納得の覚醒ぶりでした。
インパクトが強かったのはやはり“アンの心象のジョアン”です。生きていると「あ、この人ヤバい」という人と遭遇したとき防衛本能が働くことがあると思います。あの瞬間の伊波さんからはその類いの空気を感じました。口調も声音も無邪気で可愛らしい女の子そのものなのに、相手を支配する“凄み”があった。このギャップが本当に恐ろしかった。
恐ろしかったのですが、同時に伊波さんのお芝居の新境地を見せつけられゾクゾクするほどの歓喜にも震えました。

そして私の大好きな“深み”のあるお芝居も健在。
伊波さんの役は大きく分けるとジョアンと母親の二役だったわけですが。演技で求められたものはマットの体の中で生きるそれぞれの人間が抱くジョアン像。
個々の人格が見ているジョアンはその人格にとってのジョアンの心象であると考えると伊波さんが演じたのは二役だけではなく
・マットが作り出した物語の母親
・マットとジョアンの母親
・マットの記憶のジョア
・ジミーの心象のジョア
・ウッディの心象のジョア
・アンの心象のジョア
・ノーネームの語ったジョア
と複数の人物像を演じ分けたことになります。
(ノーネームがマットの過去を語る時に出てくるジョアンは心象ではなく過去の再現であるため、このジョアンがもっとも現実のジョアンに近いのかもしれません。語るもの見るものによって心象が変わる。それがこの作品の面白さのひとつだと思いました。)

伊波さんご自身「境遇がダウナー始まりの役が多い」と仰っていましたが、一言でダウナー系の役といっても種類は様々にあるわけで。今回の舞台は一つの公演の中で似通った役柄を異なった演技で表現する“バリエーションの豊富さ”を堪能することができました。
とくに耳に残っているのはマットが作り出した物語の母親の“ため息”です。
言葉ですらない台詞に、関心の無さという情報をのせ、少しの苛立ちと嫌悪という感情をのせ、息子を拒絶する母親の空虚さを表現する。すごいことだと思うのです。以前から申しておりますように、私は伊波さんのそういった深みのあるお芝居が大好きです。


伊波杏樹のRadio Curtain Call』にて伊波さんはこのように語っていました。
「今回は色んな作品を経てなのか、色んな作品を観て、自分が演じて経てみて変わったのか。自分としてのジョアン・シニアの在り方だったり歌い方を意外と自由にいい意味で奏でることができるのか、と考えられるようになった。だからプレッシャーや責任よりもワクワクの方が今回めちゃくちゃ強い」

伊波さんはとても原作というものを大切にしてくださる役者さんなので、その真面目さが逆に「こうあるべき」と伊波さんご自身の表現の可能性を縛っていたのかもしれません。
そして今回の舞台で伊波さんらしい誠実な役との向き合い方を維持しつつ鍵のかかっていた“可能性の引き出し”が解放された。こうなるともう鬼に金棒ですね!

今回の舞台を観て舞台『僕のヒーローアカデミア』がますます楽しみになりました。スケジュールの都合でキャスト変更の可能性もありますが…。絶対に鳥肌もののトガヒミコになる!
伊波さんはしばしば偶然であるかのように「私持ってるな」と口にされることがありますが。それは偶然繋がったのではなく、ご自身の力で引き寄せ繋げた未来ですよ!と力強く伝えたいです。
今回の舞台での経験、ジョアン・シニアという役との出逢いが次はどんな未来に繋がるのか!これまでもこれからも楽しみです!

 

ここまで読んでくださりありがとうございました。